2011年06月11日

何が大事なのか、今一度考えよう。


昨晩、「報道ステーション」で、村上春樹さんのスピーチの映像が流れててね、
ズッキーン・・・ときたな。


村上さんが“核”という言葉を使ってたね。

ほんと、日本は何やってんだろ。

原爆で痛い目にあってるのに、なんでまた“核”に歩みよってしまったんだろう。


番組の中で村上氏のスピーチにコメントした人が、
犠牲に会った日本だからこそ、“核”の正しい使い方を世界に示していかなくちゃいけない、
これからもその方向で・・・
なんてね、言ってたの聞いて、カチン!

何言ってんねん、こいつ!話のすり替えすんなー!!

って、わたし、画面に向かって毒づいちゃってたよ。


よく聴いてると多いよ、こういうコメントする人。

問題をすり替えるねん。

話の向き先を変えて行くねん。


司会の古舘さんが、「僕はそう思わない。」と最後にくくってくれたんで、拍手!

救われた。




以下、村上さんのスピーチの一部抜粋。(報道ステーションで放送された一部分)



ここで僕が語りたいのは、建物や道路とは違って、簡単には修復できないものごとについてです。それはたとえば倫理であり、たとえば規範です。それらはかたちを持つ物体ではありません。いったん損なわれてしまえば、簡単に元通りにはできません。機械が用意され、人手が集まり、資材さえ揃えばすぐに拵えられる、というものではないからです。

・・・・

歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないでしょう。


・・・・

我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害ですが、今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。

・・・・

 何故そんなことになったのか?戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?

 理由は簡単です。「効率」です

・・・・

我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。

・・・・

 我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。

・・・・

 それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。日本にはそのような骨太の倫理と規範が、そして社会的メッセージが必要だった。それは我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずです。


・・・・




全文はこちら→ カタルーニャ国際賞スピーチ原稿全文





<追記>


昨日、作ってみた。初心者教室参加者募集ポスター。

A4サイズ。(チラシサイズ。)

畳2畳くらいの大きさの壁に、他のサークルのポスターとともに、
隙間なくびっしり貼られる。

以前、それをぼーっと眺めていて思った。

いろとりどりのポスター。みんなすごく凝っている。

これでもか!と言わんばかりのアイテムを使いつくした飾り、色づかい・・・。


目立つには? 目が止まるには?


ひらめき

空白の多いのが、よくない?



で、こういうことに。

向かって右が一昨年作ったもの。(去年も使いまわした・・・(^_^;) )

左が、昨日新しく作ったもの。


新ポスター


2年の間の変化。


「極めれば、余計なものは要らない。」(← 神戸屋「熟成」パン)

何事もそうべし。




※ シンプルでしょう。いやー、でも、すっごい考えてあるんですよ。
  右のより中身はコリにこってます。ダメかな?


posted by akane | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記